十二国記『白銀の墟 玄の月』を読んだよ!

すごかったですね!

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なにせ18年前のことですし、細部を思い出すためにじっくり読み直しました。
あの10/12の前の日、蝕が来るのであらかじめ新潮文庫版の既刊を全部買い直しておいたのです。

十二国記」という物語のつながり

まずはウォーミングアップとして、十二国記全体の話をします。
十二国記、いい機会だから読んでみようか……」という人も多いようで、いやほんと、この作品だけは、最後の怒涛の展開もよくあるし、「あああっ、そういうつながりだったの!?」という驚きがあるので、うっかりしたことを書けない。「ガルパンはいいぞ」と同じく「ねずみまで待て」とかいうふわふわワードで頑張るしかない。

どの順で読むのがおすすめか、なんて話題もよくあった。最初は「図南の翼」が読みやすいからおすすめ、なんて言ってるひとも結構いますが、それじゃあ、……犬狼真君が!ねえ!?あれひとつの感動ポインツでしょう。先に「東の海神」読んでよ……と思うが、言えない。そう言ってしまうこと自体がネタバレであるという。

魔性の子」からでしょう。普通に。そして「白銀」で「最初の物語に、つながったーー!」というスケール感を味わって欲しい。
念の為申し上げておきますが、「白銀」は、有名シリーズでだいたいそれぞれの話としては完結しているんだけどちょっと新しい展開思いついたから新キャラとかも追加して楽しく書き上げたよ!というお話では、ないのです。
魔性の子」で起きた事件、それはある少年の数奇な運命の一時期を切り取ったものなのですが、それがついに「白銀」で決着を見る、という、長い、長い伏線なのです。

だからいきなり最新刊だけを読むなんてことはありえません。何冊かだけ拾い読みするのもおすすめしない。全部読む。どうせ全部読むんです。何度も読み返すんです。特に「黄昏の岸」のオールスターズぶりを見てくださいよ。そりゃ、プリキュアオールスターズだったら最新シリーズとその前ぐらいしか見てないちびっ子でも楽しめるように作ってあるかもしれない。でも、それでも多く知っていれば知っているほど楽しめるんです。ラーメン全部入りと違って一回で食べきれなくても、取っておいていいんですよ本というものは。「メンマとチャーシューと海苔だけ食べて白銀のライスに備えましょう」なんていうのはもったいない。

場所や人物としては確かに戴と泰麒の物語、魔性の子、風の海、黄昏の岸、が「白銀」へと続く道筋ですが、もちろん「華胥の幽夢」に入っている短編の「冬栄」も絶対外せない。じゃあ陽子や延王の物語はいいのか、というと、あの世界の入門として「月の影」は必要だし、レジスタンスの戦いぶり、クライマックスの痛快さという意味では「風の万里」に「白銀」は通じるところがある。反逆者との対峙という意味では「東の海神」がまた別の捉え方があるし、「乗月」も興味深い。なにやら潜んでいそうな、西王母や碧霞玄君、それと対極的な黄海、黄朱の世界を知っておきたいので「図南の翼」も読む。……結局全部つながっているではないですか。

そして特に今回、「白銀」を読むのにあたって優れたサブテキストは短編集「丕緒の鳥」だと思います。(この辺からだんだん内容に踏み込んでいきます)

「白銀の墟」前夜祭としての「丕緒の鳥

今回の「白銀」で18年ぶり、とさかんに宣伝されていますが、実は短編集「丕緒の鳥」が2013年に出ていました。2001年は「黄昏の岸」「華胥の幽夢」が出た年。「18年ぶりの『長編』」という意味なんでしょうね。この、なんとなく長編じゃないからとスルーされているような「丕緒の鳥」が、「白銀」を読み解くには重要なのではないか。少なくとも、少女向けジュブナイル、作者に寄せられた読者たちの悩みへの回答として書かれたという「月の影」の頃とは違う、今の小野不由美さんの考えに近い作品であることは間違いありますまい。

これには4つの話「丕緒の鳥」「落照の獄」「青条の蘭」「風信」が収められています。
「落照の獄」では、「人間なら人を軽く殺められまい」「人間なら、刑罰は苦痛であるはず」といった人間としての前提がことごとく狂った存在が現れたとき、それを「人外」の者として排除してよいのか、如何に裁くことができるのか、という苦悩が示されます。この世の秩序に潜む「バグ」を突かれたとき、どうするか。人はどうなるか。……多少こじつけ気味ですが、今回の「王も麒麟も不在な場合天命はどうなるか」あるいは「人として異端、麒麟としても異端の黒麒」、ついでに「王のくせに仕事を放棄する男」いわゆる「阿選仕事しろ」問題などが出てきます。この頃「前提に合わない存在が現れて一見上手くできたルールが崩れるとき」を小野不由美さんは考えていたのではないか。さらに憶測を重ねれば「世界が上手いこと出来すぎたら、今度は壊してみたくなる……」と、まるで忍者サスケの「必殺技を編みだすときは、それが破られたときのことも考えておくものだ」みたいなことすら考えていてもおかしくない……。そんな気がしました。

丕緒の鳥」も、射抜かれ砕けるための陶鵲が、鵲を射落とすことが、吉兆であるはずがない。そんな前提崩しがあります。真っ直ぐ王の膝許に飛んでいく一羽は、泰麒か、はたまた実際景王に飛び込んだ李斎か。

そして、「白銀」と同様に、「青条の蘭」「風信」も名もなき民の話。特に「青条の蘭」は山師、猟木師の話で、雪中を強行する内容、民が王宮を目指し次々とリレーしていく内容とも相まって「白銀」を強く感じさせます。山について詳しく調べた時期だったんだろうか。
というわけで、万一「丕緒の鳥」を読んでいないというひとがいましたら、まあちょっと買ってくるといいでしょう。

はい、では以後はネタバレありの、「魔性の子」から「白銀」4巻、すべて読み抜いた人達同士の楽しい語らいのひとつとして文章を書きます。まだの方は是非、読み終わってからまたいらしてください。

特に良かったところ

忘れてしまいそうなのでまずなにが良かったのか、ナマの読了直後のメモから。

「先生……!」

ああ……。あの地獄のような日々でも、泰麒の心に残るものがあった――。
そしてもっと深く印象に残った、こみ上げてくるものがあったのが、このシーンです。

「これは敵だから討てと言われれば、義務ですから討ちます。ですが、それを知らずに暮らしていた隣家の住人まで殺すようなことは嫌です」
言って男は拳を口許に押し当てた。
「ずっと――本当に嫌でした」

男泣きですよ。兵士が。怺え切れずに。嫌なんだよ。嫌なものは嫌なんだよ。

とにかく泰麒だった

あの黒麒、凄い。いや読みながら、ちょっと呆気にとられるように苦笑かつ感嘆しましたよ。「これ、すごいな……」
だって麒麟ってそういうのじゃないじゃん?最初から読んでるひとこそ身に沁みてわかってる。どっちかというと乱暴な王の所業に「あら民が可哀想だわ、あらどうしましょう」ちょっとー、よしなさいよーとおろおろする立ち位置だと擦り込まれている。なにせ最初の麒麟しょっぱなから「私は剣を振るう趣味は持ち合わせていない」とか抜かすやつでしたからね。

そもそも早々に一巻で李斎と別れて敵の真っ只中の白圭宮を目指すというところが、普通の攻略ではない。スライム狩りからすぐ魔王の宮殿に侵入するようなものですよね。まあ後から考えれば、なにしろそこが一番情報が集まるし、武人ではない麒麟が、麒麟であるという最大の武器を発揮できるのは宮中だということは理解できますが……。将棋で言えば飛車や角が外からどう攻めようと考えている間にいきなり敵陣の真っ只中、敵王将すぐそばに金を一枚張るようなもんです。いやそれだけじゃない、その金をさらに敵の王将と同じ向きに置くんです。相手方からすれば合駒なんですよ。どんな将棋ですか。相手もそりゃ戸惑います。「これは味方の金に見えるが、まあ敵だろうな……」と言いながら相手方の王将が仕事しない。そしてこちらの玉将は盤面にない。すごい将棋だ。

さらに、政治戦略だけじゃない。思えば、こんなにちゃんと民のために働く麒麟を初めて観た。いや、景麒も他の麒麟も素晴らしいんだと思いますよ。六太だってきっとちょっとは仕事してるんでしょう。でもさあ、泰麒が来たら部分的一時的にではあれ州候として行政が機能してたんですよ。内政をきちんとやる麒麟初めて見た。陽子だってまだ苦労しているのに。あんな王宮内がデタラメな状況なのに。

そして、とにかく最高だったあの最後の舞台。まるで広場に集まる庶民が「バーフバリ!バーフバリ!」って口々に叫びそうなあそこですが、それでもね、私はもうだめだと思った。このまま新時代になっちゃうということもあるぞ、と。この感覚、知っている。「あ、やっぱり負けて終わるのかも?」とちらっと思ったガルパン最終回と同じです。そこまでの話の流れが、うまくミスリードを引っ張っていく。
なにしろ彼は、跪いておいて「あ、王じゃなかったかも?」という、王勘違い騒動の前科持ちですからね。むしろ、「風の海 迷宮の岸」のあの名シーンですら、「やっぱり勘違いが正解で驍宗は王じゃなかった!?」という過去作品ですら信頼できなくなるという、とんでもない展開。
オビも「そして、新たな歴史が始まる」ですからね。始まっちゃうのかー、と。でもまあなにかあるだろう、とは信じていました。なにか超越的などんでん返しを。例えばそれは使令じゃないかと思ってた。傲濫が。汕子が。ひょっとすると陽子たちが覿面の罪をなんとかクリアするのか、どうなんだ――。

違った。

もう「泰麒さん」ですよね。泰麒さんなんなんすか。ほんとわたくしも「え?なに?」と固まって動けない兵卒と一緒ですよ。この、「麒麟は殺傷しない」というのを逆手に取った行動。もう一瞬の静寂から、珠簾が引き落とされ光が満ちた瞬間に超熱い主題歌アレンジスタートですよね。
しかも、別になにか強い力を得たわけでもなんでもないんだ。血の気を失った顔で、手は震えている。人を超越した魔法でも力でもない。ただ、「麒麟という存在の限界ギリギリ、若干ギリギリアウト気味に挑戦した」、目から血が出るほど無茶をした、そんな行動で絶体絶命の窮地を切り開いた。

この泰麒の暴れっぷりを驍宗は、麾下たちはどう見たんでしょう。「さすが、戴の人間は血の気が多いわい」などと笑ってる場合ではなく、神獣ではあれ、弱き者がこれほど必死に生きている。翻って王とは、武人とは一体何だ。そう思わざるを得なかったではないかな。ここ、図南の翼の珠晶とちょっと同じ構図ですよね。小さいものが傾く国を思い昇山する。大人はそれでいいのか。

小野不由美さんは、小さいものの積み重ね、戦いの中で名もなく死んでいく民の話を書きたい、となにかのインタビューで答えていらしたそうですが、その通り「白銀の墟」は名もなき民の物語であり、そして、だからこそ麒麟の物語。かつての蓬莱の帝の言葉に「雑草という草はない」という有名なものがあって、後に記者会見で「私は植物を好んで観察するせいかもしれないが、どうもこの名前は少し侮辱的な感じがして好まないのです」とお答えになったそうですが、泰麒も
「ぼく、雑草という呼び方は違うと思うんです」
とか言いそうですよね。
ところで、なんどか出てくる「案作の時代、来ちゃったかな……」みたいなやつ、あれなんなの。面白すぎるんだけど。

驍宗と阿選

そんな、麒麟、そして民の動きを改めて目の当たりにしたからこそ、驍宗も素直に延王の前に膝を突き「泰を救うためにお力をお貸し願いたい」と言えたのではないか。いや驍宗って、私は泰麒じゃないけどちょっと怖い、もっとはっきりいうとちょっと悪いやつじゃんじゃないかと思ってたの。「風の海」のころは。あの人「私に五百年の寿命があれば、延王に後れは取りません」なんて言ってたのよ。それがまあ随分丸くなって。
驍宗さん、あの騒動でも驚いてなかったからね。みんなが、そして読者も「あの可愛い泰麒きゅんが……」と思ってたところ、一人だけちゃんと泰麒の本質を見抜いていたんだね。そういえば饕餮を下すところを唯一人、観ていた人だったのだ。
「自分でも驚いたことに、驍宗は目の前の子供に畏れを感じていたのだ」
ですよ。この黒麒を子供だと侮ってはならぬ。マジになるとすげえんだぞ、と。ちょっとビビるくらいだぞ、と。誰かを守るとなったらとんでもない根性を見せる。それを知っていたから、駆け付ける泰麒を見ても「ああ、さすがやね……」と驚きもなかったのでしょう。

そんな驍宗もスーパーですけどね。洞窟の中、祭事をやってたってところは驚いた。祭事ね。そんなの忘れてた。私が王だったら戴は滅びてますねあっという間に。そうかあ、それもあって失道はしてなかったのかもなあ。いや、阿選が新王だとするなら、驍宗は業務放棄での失道扱いなんだろうな、と思っていたから。
だから、もう穴から騶虞が出てきたって一向に私は驚かない。捕まえるでしょう驍宗様だから。そりゃ出てくるでしょう驍宗様だもん。ところで、誰かのツイートにあったけど、計都と羅睺ってヒンズー教用語だったのね。日食や月食を起こすのだそうだ。
ケートゥ - Wikipedia
月食といえば、この方のご意見が興味深い。


乍は朔か。月籠り…この騶虞の命名からして、「白銀の墟 玄の月」というタイトルからして、そうなのではないかと思わせる説得力。天照が籠ったときは大宴会で出てきただったけど、月が籠るときは自力で騎獣を捕まえて飛び出すのだな……。そう言われてみると、あの親子が流したお供えものはお月見のようだ。

一方阿選ですよ。まあ今までにも十二国記の中で偽王を狙った者は何人か出てきましたが、彼の場合は「俺ならもっとうまくやれる」じゃなくて、ただのランキング厨だったんだね。そもそも何のために王はあるのか、何を競うべきだったのか、が欠けていた。あいつより上になりたい、という思いだけが上回っちゃって。出世欲だけの人って、いるよね……。もっとも、その後あまりに無気力過ぎて、あれは琅燦になにか気力を抜かれてるのではないか。燃え尽き症候群なのか。

李斎と民

さて李斎さんです。李斎の「公は本当に李斎が舞い上がるようなことを言ってくださる」というセリフが好きなんですよね。そんな彼女のここまでの、ほんと「白銀」のもうひとりの主人公ですからね、彼女の、そこまで身を捧げるモチベーションはなんだったんだろう……と思うとこれはもちろん、戴の民を救うことでした。そのためには慶ですら利用することも厭わないまでの。そうだ、彼女はまた昇山の者であった。つまり、王として身を捧げる覚悟があったわけです。阿選が一度、「一緒に昇山しておいて驍宗が選ばれたらさー、おれは違うけど武人ならふつー、驍宗のこと恨むパターンだよなああれ。おれは違うけど」って首を捻るシーンがあって、ほんと阿選ってやつはランキング厨。李斎をまったく理解できない。
しかし波乱万丈さには泰麒に一歩も二歩もゆずるとしても、なんと激しい人生だったことか。いや終わってないけど。
「――莫迦か、あの女は!」
土匪である朽桟を救いに戻る李斎。一大クライマックスですね。講談になりそうだし歌舞伎の一幕にもなる。朽桟も、国定忠治清水次郎長、はたまた水滸伝に出てくるかのような人物。悪漢小説ですよね。里見八犬伝だったら、李斎以下、英章も巌趙、臥信も、同じ形のアザを持ち主君のために集まるのだ。

あ、さっきバーフバリと言いましたがあのスタッフが今度は幼い泰麒を背負った李斎みたいな映画作るみたいね。

それはともかく、李斎の動きは地味です。そりゃそうでしょう、おおっぴらには動けない。慶など他国は兵を動かせない。しかし隠密裡に行動しながらも石林観、瑞雲観、神農、牙門観、壇法寺…道教やら土匪やらかつての麾下やら、もうあらゆる市井の人々が李斎の許に集結し「墨幟」を形成していく……。

仏教、道教道教はまあ、ある意味十二国記の根本的な神仙思想にも近い(多分墨子に一番近そうですが。墨幟という言葉も出てきましたね)のでまだわかるけど、仏が。仏かあ。あの世界にもブッダはいたんだろうか。

琅燦

琅燦については、今のところ一番ヘイトを集めてるみたいなんですけど、ちょっとなんとも言えないなあ。興味本位のマッド・サイエンティストっぽいけど、それだけのキャラでもない。



ご意見・ご推察がいろいろ出ていますが、うーん。黄朱となると耶利、そして犬狼真君との関係が気になってきますね。でも……。なんというか、天帝以下、王、麒麟、国、民のシステムの外にいる黄朱。道教や仏教もそうか。そしてまつろわぬ人々といえばもう一つ、海客。思えば、十二国記は海客の物語でもあったなあ。このように、「天帝システム」とそれの埒外にいる人々とのもっと大きな対立項があるような気もしますね。李斎も「なんかなー、胡散臭いっつーか、気分悪いんだよなー」みたいな感じじゃないですか。女神に対して。陽子も疑問を感じ取っている。そのあたり……もっとも、今後大きく切り込んで書かれるとも思われないけど、なにかもうひとつメタな……

ひょっとすると最大の隠された問題は、
「あれら十二の国を表す名前がない」
かもしれませんね。
十二国記」という名前自体、小野不由美さんが編集部の要望で付けたとのこと。つまり本来この物語全体は名前がないんです。十二の国の民が他国をほとんど意識せず暮らしている、考えないような仕組みになっている……。

白銀の物語展開

1、2巻の感想で「話進まねーなー」なんて言ってた人もいますが、まあ気持ちはわかる。とくに李斎は山を行ったり来たりしてるだけだからね。地味といえば地味。でも、それが民目線で動くということなんだ。なにもしてなかったわけでもないし、物語は確実に前に進んでいる。決して退屈ではないんだよね。

逆に、「最後は急ぎ過ぎなんじゃないか」という人もいる。これはあれですよ、スピードコントロール。ものすごくゆっくり、あくびが出るほどのペースで情景が描写されるかと思えば、クライマックスではあれよあれよとページのめくる手が止まらない。ずっと同じテンポのダンスミュージックとは全く別の、緩急自在のリズム感。これは私は計算されたものだと思います。いつだってラストは凄まじいテンポなのよ。

あと、前から「もうあとはわかるよね?」というところはあえて書かないじゃないですか。「月の影」の最後だって、いざ偽王との対決は……書かない。そこじゃないんだ。麒麟が王の許に還る。そこまでをじっくり書く。今回は園糸に始まり園糸に終わる形だったけど。

そして後から、あの最後のページ、史書の短い記述で「ああ、そうなったのか……」とたっぷり行間を匂わせて終わる。そういうやり方を好む作者であり、作品なのです。

この長い4冊にもわたる物語が歴史ではたったの九行。ここで、歴史というものはいつだってそうだったと思い出すわけです。歴史には園糸も栗も出てこない。でも、その行間、文字間に、とてつもない人々の無数のドラマがあることを我々は知っている。
そんな物語を見てきたからこそ今となっては、数ヶ月後に阿選を討ち取った旨の最後の短い一文にすら、たくさんの人々を想起することができる。

あ、気付いてない人がいるみたいなので書いておきますが、その最後の最後に明かされる新元号は「明幟」。墨幟にしたいが新たな時代のため多少めでたいものにしておこう。暗闇は終わったのだ……これには泰麒もにっこり、李斎が泣いて喜ぶやりとりが目に浮かぶではないですか。

そして最後のページには分厚い戴史乍書のイラスト。この濃い出来事ですら九行で済ます歴史書なのよ。それがあの厚さ。どんな長い治世なのかという。そこまで示唆してくれているのです。

ただまあ……確かにあれだけの諸国連合軍も、見てみたかった。延王の「諸国が支援する――存分にやれ」の頼もしいことよ。陽子だってそろそろ剣を振いたくなる頃だろう。傲濫や汕子だって汚名を雪ぎたいはずだ。
なんなら中嶋陽子パイセンと高里要の高殺傷力コンビによるラジオ番組が始まっても一向に構いませんな。

むすびに

さすがに十二国記の読者なら長い文は読み慣れてるはず、という推定に甘えた取り止めもない雑談もそろそろにしようと思いますが、それにしても今回、山の話でしたね。大地に根差し、ある意味縛りつけられた、頑健な石造りの城と山の民。
一方で海の民というのもあって良いとは思うのよ。多分、天帝システムとはほんとに異なる文明になるけど。蝕に流されても、むしろそれが日常茶飯事、流されてもまた作ればいい、土地なんか決まってない、そんな人々。

エッセイですが、東西陸と水上の文明を比べていてやたらた面白いので読んで。できればこの先、こんな十二国記も読んでみたい。
……って、あ、これ守り人だ。上橋菜穂子さんの「守り人」シリーズが海洋国とか出てきて、山の民などと文化比較していましたね。あれも名作だから、読んで。

泰麒さん、山が好きなお子さんでしたね。まああれは逢山を思い出していたのでしょうが、「魔性の子」でもギアナ高地の山や迷宮に目を輝かせるシーンがありました。


この方のイラストが素晴らしかったので思わずメモっていたのですが、この4枚めの赤い傘、ね。
泰麒さんは、泰王をパトロンにして涵養山の迷宮を探検するといいんじゃないかな。土匪や山師の新たな職業として、地図を作って売る仕事だって作れそう。

商売っけといえば、幸運の鈴売りね。あの淵に鈴を流すと幸運が訪れる。一個50円。行けるね。お手玉まんじゅうとかも売れるね。こっちは80円ぐらい。

その後の人事予想のツイートを目にしました。李斎は瑞州州師の将軍。なるほど。まあまともとの職だし瑞州候泰麒のおそばにずっといられるので、ということでしょうね。いいと思いますが、この物語の後では、彼女には文州侯がいいんではないだろうか。今回の舞台となった州。あの涵養山に轍囲もあり数々の道観もあり。それに、隻腕だからという意味でもないのですが、将軍以上の、州の主として治める能力も価値も十分あるのではないか。

以上です!おつかれさまでした。いやあ、実に楽しかった。

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11/22訂正:文州、でした。